手話通訳はボランティアか?


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改訂履歴

よく言われる「手話やってるの? 偉いわねぇ」は聞き飽きた

手話の勉強から始まって、ろうあ者と会うようになってから、もう、うん数年。 私が手話の勉強を始めた頃は、手話が社会的に見てひじょうにマイナーなもの だったのですが、ちょっと前にたて続けにドラマで手話が取り上げられたこと もあり、最近では手話の講習会も満員御礼状態。もっとも、お茶、お花、に並 ぶ花嫁修行の一つと思われているような雰囲気もなきにしもあらずで、その前 途たるや、五里霧中ではありますが、なにはともあれ、手話の存在自体が社会 に知られていることは、まず第一歩としては良いのではないかと思います。

さて、そんなふうに手話に関わってくると、ちょっと気になるのが、「手話を 勉強しているの? 偉いわねぇ」という周囲の目(声)です。この「偉いわねぇ」 には「福祉に興味があるのね。心優しい人なのね」という心があります。私は これを言われると、思わず後ろを振り返って誰かいないか確認してしまうので すが、確かに手話を勉強している人には、そういう人が多いということは実感 としてあります。
ちょっと脇道にそれますが、そういう人は、泥臭い場面に直面していくと、脱 落する傾向があると思います。例えば、手話サークル内で派閥ができて仲間外 れになったとか、組織的なしがらみに翻弄されていつのまにかひどい奴の烙印 を押されているとか。「おいおい、あんたは手話サークルに何をしに来ている んだよ。」というつっこみを入れたくなることも多いのですが、そうならない ためには、それなりの心構えが必要だと思います。なんとなく始めると流され た時に大変です。目標や理念を持つとそういうことに対する耐性ができます。 今回の話題の「手話通訳はボランティアか?」を考えることで、是非その耐性 を強めて下さい。(脇道にそれたつもりだったけど、うまく戻ってきたぞ。よ しよし)
さて、心構えとは何でしょうか? 私は「あの手話を勉強しているの? 偉いわねぇ」 にあると思います。この言葉を言わせる社会的な状況や意識、これを修正して いく必要があると思うわけです。そうしないと、この言葉は何につながるか? それは「手話やっているの? ボランティアしてるのは偉いわねぇ」です。

「手話 = ボランティア」という命題は真なりか?

手話はボランティアなんでしょうか?

社会的な事実に目を向けてみましょう。インターネットでWeb pageを検索する とします。Yahoo! JAPANを見てみましょう。手話関係のweb siteは何に分類さ れていますか? 福祉、障害者、ボランティアです。本屋に行ってみましょう。 手話の本はどこにありますか? 福祉、介護、ボランティアでしょう。市役所で 手話サークル情報を得るならどこですか? 障害福祉課が一般的ですが、最近で はボランティア情報コーナーなるものが設置されていて、そこが引き受けてい るところが多いようです。
手話がボランティアであっては困るのでしょうか? 以上のように社会的には完 全に手話はボランティアであると認識されているのに、私がそれに歯向かう理 由は何なのか? その理由をクドクドと説明させて頂きましょう。もうしばらく 我慢して下さいな。

「私は弟を殴った」と「私の弟が殴った」の違い

手話の勉強を始めると、たいていは単語から始めます。走るの手話はこうだと か、りんごはこうやって表すんだという具合に。そうなると、「あぁ、手話っ て単語を手で表せばいいのね。簡単ね。」と誤解する人が多いです。ほとんど 全員が誤解すると断言してもいい。(私も最初はそうだったし。)でもねぇ、ちょっ と考えてみて下さいよ。単語だけ表したら「てにをは」が抜けているでしょ? そうしたら「私は弟を殴った」と「私の弟が殴った」の違いはどうやって表現 するの? 最初文は殴られたのは弟ですが、後の文は弟が殴っているんです。 「てにをは」を抜いたら、「私、弟、殴った」で同じになっちゃいますよ。こ んな簡単な例からもわかるように、手話っていうのは、それなりに文法を持っ ていて、単純に単語を手で表せばいいってものではないんです。つまり、手話 と日本語は違うわけです。
これを(言語の)専門家は「手話は日本語とは違う言語である」なんて言います。 つまり、手話ってのは英語と同じように日本語とは違うものなんです。(ちな みにアメリカの手話と日本語の手話も違いますけど、その話はまた別の機会に。)
となるとですね、「英語」を「手話」に置き換えて考えみるとひじょうに興味 深いことに気がつくのではないでしょうか。例えば、最近ではNOVAとかZIOSと かの英語教室が大流行ですね。(私も英語の勉強をせにゃあかんのですが、ト ホホ...)このような英語を勉強している人に「英語を勉強しているの? 偉いわ ねぇ」と言います? 普通言わないでしょ。同じように別言語を勉強しているの に、偉さに違いがあるわけじゃなし、やっぱり、この「偉いわねぇ」には何か 別の意識があって言っているわけです。

では、それは何か? それが「手話はボランティアだ」って考えです。

ボランティアなんて、やってらんない

これはちょっと過激な意見ですが、ですが、日本人が「ボランティア」という 時、それは「ただ働き」という意味で使います。金がもらえないという意味で す。私は「ボランティア = ただ働き」という考えにはちょっとは賛同してもい いと思うのですよ。でも、手話はただ働きではない、というよりただ働きでは やってられないのです。
その理由は2つ。手話を勉強しているからといって通訳をやるわけではないこ と。もう一つが手話通訳を「ただ働き」でなんてやってらんないということで す。

一つ目の理由の手話を勉強しても必ずしも通訳をやるわけではないということ は、先ほどの英語の例えを使えば簡単にわかります。日本では中学、高校とずぅぅぅっ と英語を勉強するわけですが、その中で通訳や翻訳をやる人って何人いますか? ほとんどの人はせいぜい自分で英語を話してアメリカ人と話ができればいいわ けでしょ。英語を勉強したからといって必ずしも通訳をやることになるわけじゃ ないんです。手話と英語が同じように日本語とは違う言語なら、手話をやって いる人も同じように、せいぜい聾者と話ができるようになればいいなぁ、と思っ たっていいわけですし、むしろその方が普通の考えです。
ちょっと英語がうまいから、苦手な友人から「ねぇ、今度いとこのうちにアメ リカからホームステイが来るんだけど、一緒に行って話す時に通訳してもらえ ないかなぁ」なんて頼まれることはあるでしょう。同じように、個人的に手話 通訳を頼まれることはあるでしょう。それはいいんだけど、全くの赤の他人の アメリカ人の通訳をただ働きでやるなんて、常識ではありえます? 手話通訳も 同じです。

二つ目の理由は手話通訳が重労働だということ。違う言語なんだから、通訳は 超超超超超高度な頭脳労働です。あなたがよくわからん言語を話す外国で商談 をまとめなくてはならない時、通訳を頼むことになるでしょうけど、その代金っ ていくらなのかを考えると、かなりドキドキしてしまうでしょう。そうでなく ても、英語が苦手な人がアメリカ旅行する時でもいちいち通訳を頼むなんてし ません。たぶん、高いから。通じなければ困るのだろうけど、でも、高いから 頼めないのが通訳だと思うし、それぐらいすごい技術を持っているのが通訳者 だと思います。

では、「手話通訳 = ボランティア」を改めて考えてみましょう。手話だって 普段から自分の技術に磨きをかけなければならないし、だいたい習得する時の 苦労っていったら、英語と同じようなもんなんですから、そりゃ大変ですよ。 なんで、そうまでして会得した技術を「ただ」で提供しなければならないんで しょうか?
そうです。手話はボランティアでできるようなことではないのです。手話通訳 もプロとして、仕事として、成り立つもの(成り立たせるべきもの)なんです。

厚生省とは比べようもないぐらい、通訳は責任を負います

しかし、実態はなかなかもうからず、手話通訳だけでは食べていけないという 現状があります。需要はあるんですよ。1997年の厚生省の調査によれば、全国 に聴覚障害者は30万人、そのうち手話を使うのは5万人程度なのだそうです。こ の数字は最低限の数だと思うし、中途失聴者で手話を使う人も増えてくれば需 要は増えてくると思うので、だいたい全国に手話通訳を必要とする聾者は15万 人ぐらいでしょう。20万人は越えないと思う。たぶんに推測ですが。この15万 人の人は、健聴者が外国に行って困るのとは違って、常に外国にいるような人 なのです。だって耳が聞こえないのだから。でも、本人達にはいかんともしが たいわけです。健聴者なら外国語を勉強すればいいのですが、この20万の人は どうしても通訳が必要な事情があるわけです。もっともこれらの人が常時通訳 を必要としているわけではありません(洗濯や掃除している時はいらないでしょ う、やっぱり)から、本当に必要な通訳は何人かを見積もってみると、こういう 場合の通訳の適正な数というのは社会科学的に見て、だいたい5人〜50人に1人 ぐらい必要なんだそうです(良い1次資料がないので伝聞調なのが申し訳ないの ですが)。それで現状を見てみると、手話通訳士の資格を持つ人は全国に約2000 人しかいないんですよね。20万に対して最悪4000人は必要でしょうから、だい たい半分足りない。それでも最低限の話ね。50人中3人が同時に病院に行くなん てこともじゅうぶんありえるから、本当はこの4倍は必要なんじゃないかなぁ、 と思う。
今の手話通訳者はどうしているかというと、福祉関係の仕事があって、それで ついでに手話通訳もやっている人がほとんどです。だから、書類書きとか、相 談業務もやっていたりするわけです。もう激務です。さらに聾者が交通事故を 起こしたとか、救急車で病院に行ったらとなれば、風呂に入っていても呼び出 されたりすることもあるわけで、その忙しさといったら、消防士と弁護士をか け算したようなもんです。消防士でも休みがあるし、弁護士なら給料も高いの でしょうけど、手話通訳士は休みもとれなかったり、給料も元々が福祉関係の 職員だから、そんなに高くないわけです。だいぶ脇道にそれましたが、とても ボランティアでやるようなことではないでしょ、これは。
あと一つ付け加えるなら、通訳には「責任」が伴います。例えば病院通訳とい うのは、かなり需要が高いのですけど、こんなところで誤訳されたらたまらん でしょう。ボランティアの軽い気持ちで通訳して、その人が誤訳で病気が重く なったら、どうなっちゃうか... 想像したくもないです。とにかく、手話通訳 者を探す方が難しい現状では、通訳の依頼がある場面というのは、そういう重 大な場面ばかりです。そんなところへは、普通は、ボランティアでは到底行け ませんよ。でも、たまに事情をよく知らない人が気軽に行ってしまうのですよ ね。もうちょっと考えてから行動して欲しい。誤訳のせいで、聾者が死んでし まう可能性もあるのですから。気軽にやった通訳でも、責任自体は、聾者の親 族と医者の両方から責められますよ。

そんなわけで、「手話はボランティア」ではありませんし、手話を勉強しても 偉くもなんともないのです。

さぁ、ここが出発点。手話がボテンティアでないとなれば、一体何なのか? 通 訳はどうあるべきなのか? これをきっかけに、ちょっと考えてみて下さい。


TOKUDA Masaaki (tokudama@rr.iij4u.or.jp)

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