自然言語処理学屋からの日本手話についての意見


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改訂履歴

前置き

「日本手話」「日本語対応手話」が話題になっています。それが専門家でない ごく普通の人達も巻き込んでいることには驚かされます。話題になること自体 は手話がいよいよ本格的に認知されたことなんだろうと思い、それは良いこと だと思います。ただ、一方で、そんなことを議論してどうするの? と思うこと もしばしばです。何か将来的に有効な結果を生み出すための議論なのかどうか、 疑問に思うことがあるのです。
個人的には[日聴98]のように、時間をかけて議論し、「落ち着くところに落ち 着く」のがいいと思うし、「無理な結論を出す必要もない」と思います。また、 松本晶行氏が述べているように「(日本手話とは)概念としてはわかりますね。」 とそんなことはどうでもいいとあっさりしている態度も好きです[通研98]。私 は手話を話す人、みんながみんな、日本手話について知る必要は特にないと思 います。
ただ、それでは、なぜ「日本手話」という言葉が存在するのか? 「手話」だけ では足りないのか? という疑問を持つ人がいるでしょう。その問いについて、 私の立場、自然言語処理学から答えたいと思います。

「日本手話」という言葉が必要な理由

自然言語処理とは言葉をコンピュータ(計算機)で処理する学問です。言葉を扱 う学問は他にもあります。言語学や心理学はその代表となる分野です。自然言 語処理学は情報処理という分野に属す理系の学問ですが、その内容は文系であ る言語学の知識も必要とする非常に横断的なものです。そのため、私は自然言 語処理学で手話を扱いますが、そのためには言語学的な理屈も知る必要があり、 そのため、日本手話に対する姿勢をしっかりとしなければならないという事情 があります。

さて、「日本手話」という言葉が使われるのは、それは今までの「手話」とい う言葉が力不足になってきたからです。つまり、「手話」だけではとても広い 意味を持っているので、我々が研究する上で支障が出てきたのです。
一般に学問で行うことの一つに分類があります。ある対象を分類し、その詳細 を調べていくことです。植物の研究者は草木を分類します。例えば1年で花を 咲かせ枯れる花、何年も花を咲かせる花というように分類します。そうしない と、例えば花を実験で咲かせようとした時に、何年も花を咲かせる植物と1年 で枯れる植物を一緒に育ててはどちらもうまく育ちません。それぞれ育てる温 室も水やりも違う方法があります。そのためには花を分類して、そのタイプ別 の扱いをしなければならないわけです。
手話も言語として研究対象になった時から、このような分類をする必要があり ました。その結果として産まれた言葉が「日本手話」と「日本語対応手話」で す。これらは言語学者の研究する上での利便性のために使われる言葉であると 言えます。

「日本手話」とは? 「日本語対応手話」とは?

最初にお断りしておくと、日本手話の定義は立場によってそれぞれ微妙に違う ということを覚えておいて下さい。この違いは学問上仕方のない違いであった り、個人的な主義主張の違いであったりします。ここでは私の立場を述べるの で、後は読者の方の判断に委ねます。

「日本手話」をわかりやすく言えば、従来言われていた「聾者的手話」とか 「伝統的手話」のことです。もう一方の「日本語対応手話」は「健聴者的手話」 「同時法」と呼ばれていた手話のこと、と思えば、おおよそ合っています。
ただ、なぜ、「同時法」といった名称を使わないのかは、一応理由があります。 今まで使っていた名称は、単に口を使っているとか、聾者が使っているという ように、言語を観察して判別できる分類ではないことが多いのです。また、か なり主観的な要素が入っていたりすることもあります。そこで、改めて仕切り 直して、新しい言葉を使って分類してみようと言う気持ちが「日本手話」「日 本語対応手話」にはあります。

では、「日本手話」とは何か? その前に言語はどのように定義されるものなの でしょうか?
自然言語処理では、大まかに考えると、言語を文法と語彙によって分類します。 文法は語彙の組合せ方のこと、語彙とは単語の意味や種類のことです。語彙が 同じでも文法が違えば違う言語です。
まず「日本語対応手話」について考えてみます。これはその名が表す通り「日 本語と対応がつく手話」です。つまり、語彙も文法も日本語と同じであること を意味しています。日本語にある単語は「日本語対応手話」にもあり、主語や 述語の出現方法や組合せも日本語とほとんど同じです。確かに微妙な差はあり ますが、後で述べるようにこの差はあまり研究上問題ありません。
では「日本手話」はどうなのか? 日本手話の語彙は日本語とはかなり違います。 これは[日手辞典97]を見ても明らかです。例えば「開く」の語義は、手話の方 が日本語より多く載せられています。この点だけを見ても日本語と日本手話は 違う言語であると言えます。
文法の方はどうでしょうか? こちらは少し研究が必要そうです。市田泰弘氏は 日本手話の語順SOVであると述べています[市田94]。これは日本語と同じです。 しかし日本手話の場合、文末に接語代名詞と呼ばれる構文要素が出てくること が報告されています[市田98]。これは「弁当/作る/私 (私が弁当を作るのか?)」 というような発話です。日本語対応手話ならば「私/弁当/作る/?」になります。 このように日本手話の文法については、日本語と同じようでもあり、違う点も あります。違うと言っても少ししか違わないのか、それとも全く違うのかは、 今後の研究結果を待つしかありません。現時点で結論するのは時期尚早です。
ただ、注意して欲しいのは、「違う」ということの意味です。ここで述べてい るように、日本手話と日本語対応手話の違いは、口話がついていない/いると か、表情がついている/いないということではありません。そのような表現上 の違いではなく、単語の使われ方、意味、語順が問題なのです。ですから、 「日本手話には口話はつかない」というのは明らかに誤解です。

口話と表情は日本手話の特徴か?

「口話がないのが日本手話」「表情があるのが日本手話」という説があります。 手話講習会で表情が大切ということを言われたことはありませんか? また、同 時法では口話が強調されたために、逆に手話では口話が必要ないという考え方 があるようです。

私には、これらは、やはり誤解であると思われます。まず表情ですが、全ての 表情が日本手話に必須であるわけではありません。言語学上の研究では、うな づき、眉あげ[市田・木村93]、視線[市田96]など特定の部分について報告され ています。これらの研究からは、顔の特定部位は文法的要素を表していますが、 全体として、例えば怒っているとか、泣いている表情というものは、怒ってい る、泣いているという単語の表現でしかないと思います。多少、修飾的な要因 はありますが、それは後述します。

次に口話ですが、最近になって、日本手話にも口話があることが明らかになっ ています[関根他98]。但し、これは日本語の単語を発話する形とは全く異なっ たものです。もっと幅広く、一部の手話では日本語の一部を借用した口話があ るという主張もあります[米内山97]。つまり、日本語の単語を発話する形の口 話は相手にわかりやすくするためのものであり、日本手話の特徴ではありませ んが、それを否定するにしても根拠が弱いと思います。また、それ以外の口話 については、今後の研究の結果を待つ必要があるでしょう。

以上まとめますと、「口話がない」「表情がある」は、日本手話の特徴という には根拠が弱すぎるということです。なぜなら、他の要因が多分に混じってい たり、まだわからないことが多いからです。現時点で、口話がつかないのが日 本手話、表情があるのは日本手話と断定するのは勇み足であるといえるでしょ う。
口話については、おそらく、日本語の口形の口話と日本手話の発話に伴う口話 は別の名称で区別されていくと思います。また、表情も顔の部分によって細分 化されていくことになるでしょう。これは、現在の我々の議論にはあまりにも 細か過ぎる話なので、このあたりでひと区切りつけることにします。

表現の違いは、どのように考えるのか?

今度は、口話と表情以外の表現について考えてみたいと思います。手話は視覚 言語と言われるように、目で見る言葉です。他の日本語や英語のような音声言 語と比較しても、きわだった特徴であることは確かです。例えば、中級テキス ト[中級91]には、写像性、具体的表現、状況表現、位置・方向、同時性につい て述べられています。これは日本手話の特徴ではないのでしょうか?
私は、講習会で教えられる手話の中には日本手話の特徴を含んでいるものもあ るが、日本手話だけの特徴ではないものも含まれていると考えています。それ を具体的に述べてみます。

写像性

写像性とは、発話の際に単語が思いつかない時、パントマイムのように表現す ることができる特徴のことです。
写像性には2種類の役割があると考えられます。1つは造語力、もう一つが表現 の拡張です。
造語力(これは言語学で通用する専門用語です。)とはある言語に存在しない単 語がある時に、その単語を作ることです。写像性は手話に該当する単語がない 時に使われることが多いと思います。これは手話に単語が存在しないのではな く、まさに該当する単語を作る行為だと思います。この結果、多数の人が納得 する表現が生み出されて広く使われ(その間にいくらかの改良、変更がある。) るようになると新単語となるのだと思うのです。これは日本語でもあります。 例えばdisclosureという言葉が日本に入ってきても該当する言葉がありません。 そのような場合には、日本語の場合、とりあえずカタカナで「ディスクロージャー」 と言って使います。手話の場合、このカタカナを使うことが、写像性に当たる と思うのです。
もう一つの表現の拡張とは、造語性とは一見同じようですが(私の考える言語 的な扱いは)全く異なるものです。表現の拡張とは、つまり、表現力を豊かに することです。例えば、山があれば、高い山、低い山、山が連なっている様子 というものを表すことで、これらは意味としては「山」です。それが高かった り、低かったりするわけです。これは「山」という手話に形容詞「高い」「低 い」が組み込まれていると考えるのが自然です。組み込まれるのは形容詞とは 限りません。時制(過去、現在、未来)が組み込まれることもあります。松本氏 はでは、これらを動詞の動態変化として説明しています[松本98b]。
以上のように、写像性には全くことなる2つの言語的な要素があります。大事 なことは、これらを区別して考えなければならないことと、これらは日本手話 「だけ」の特徴ではないということです。区別する必要性は学問的なことです から、ここでは省きます。一方のこれらが日本手話の特徴ではないことの意味 ですが、その理由は、これらが他の言語にもあるからです。他の言語にもある 現象を日本手話の特徴であると主張するわけにはいきません。(例えば、「車」 と「電車」は違う物ですが、両方とも「走ります」。「走る」ことを車の特徴 というと、電車の立場が困ってしまいます。)造語性はどんな言語にもある特 徴です。日本手話だけのものではありません。それが日本語ならカタカナで、 手話ならパントマイム的な表現なだけです。一方の表現の拡張は、構文的な変 化、例えば形容詞の組み込み、もしくは動詞の動態変化で説明できるわけで、 これは他の言語でも屈折、派生として存在します。確かに日本手話でこれらの 特徴がどのように使われているのかは研究上興味のある話ですが、これは日本 語対応手話との特別に異なる特徴というには根拠が弱いでしょう。
つまり、日本語対応手話でも造語的な写像性、表現の拡張としての写像性は使 われることがありえるわけです。ですから、日本手話と日本語対応手話を区別 する時に写像性はあまり役には立ちません。ただ、日本語などの音声言語とは 明らかに異なる部分ですので、講習会で習得する必要はあると思います。

具体的表現、状況表現

具体的表現とは、例えば「食べる」では、「カレーを食べる」「ラーメンを食 べる」「焼き鳥を食べる」では表現方法が異なるということです。また、状況 表現とは「怒る」「とても怒る」を表現する時、表情をつけて強弱を表すこと です。
この現象を説明する方法は2つあると思います。1つ目は、単語は1つでありそ れが変化するのだという説。2つ目が単語の組合せであるという説です。前者は [松本98b]の立場です。これを言語学的には屈折と言いますが、これは非常に 的を射た説です。一般にこの方が考え方としてはリーズナブルです。自然言語 処理学的に考えても、1つの「食べる」を用意しておいて、何を食べるのかが わかった時点で「食べる」の単語を変形させた方が処理はやりやすいと思いま す。しかし、後者の説も妥当性があります。「怒る」「とても怒る」という変 化は、「怒る」に形容詞が修飾したと考える方が妥当です。これは単語の組合 せであるという説の方がしっくりくるでしょう。
これらの話題は、純粋に語彙の扱いの問題です。日本手話、日本語対応手話に 共通に表れるので、分類基準としては全くの力不足です。

具体的表現については、これとは別に一つの懸念が私にはあります。それは必 要以上に強調されていることです。例えば、無表情のままでも「怒る」という 手話単語を発話すれば、それは「怒る」だとわかります。「怒る」表情を絶対 につけなければならない、ということはありません。「怒る」を発話する時に 表情も「怒る」のはわかりやすくしたり、その他の意味を込めるためで(例え ば、強く怒っていたり、冗談で怒っているなどの形容的な意味を込める。)、 それは日本語で言えば「話し方」に該当します。手話を習得する時には、表情 に気をつける必要もあるとは思いますが、それは特になくても手話を話せるよ うになりますし、そればかりに注意しているともっと他にある本質を見落とす ことになります。程度問題ですが、表情の勉強はほどほどが大切だと思います。

位置、方向表現

手話の単語を表現する位置、方向によって意味が変わることがあります。これ は明らかに構文的な要因であり、手話の特徴ではありますが、日本手話だけの 特徴ではありません。日本語対応手話でも同じように出現します。ですから、 分類基準としては、役に立ちません。

位置、方向の表現を空間表現と言いますが、これは研究対象として、現在最も 盛んに行われているところです。つまり、まだわからないことが沢山あるので す。我々は自然に空間表現を使いますが、その種類はどのくらいあるのか、ど のような場合にどのような空間表現を使うのかは、まだはっきりとわかってい るわけではないのです。確かに部分的にはわかっていることはあります。その 代表例が受身形です。「だます」「だまされる」は方向によって表現します。 しかし、全ての動詞が方向で受身形を作れるわけではありません。例えば、手 話では「遊ぶ」「遊ばれる」を方向性で受身を表現できますか? 日本語は「れ る」「られる」で簡単に受身を作れます。つまり、手話の受身形の作り方は日 本語のように単純ではないのです。このように、この分野はまだまだ研究が必 要な分野であり、それをわかった上で学べば、より手話がよくわかるのではな いでしょうか。

同時性

同時性とは、「食べならが読む」という表現が手話では同時にできるというこ とです。これも手話の特徴ではありますが、日本手話だけではなく、日本語対 応手話でも使われます。分類基準としては役に立ちません。

以上のように、手話講習会で習っている手話の要素は、それぞれ特に日本手話 の特徴というわけではなく、日本手話と日本語対応手話を含めた大きな意味で の「手話」についての特徴です。これは視覚言語である手話の特徴ということ も出来るでしょう。
これらの特徴から「日本手話」「日本語対応手話」を議論するのは、根拠が弱 いと思います。

繰り返し述べますと、これらの講習会で述べられる手話の特徴は、日本手話に も日本語対応手話にも見られ、この2つの手話を区別するのにはあまり使えな いということです。言語学を少しでも学んだ人が、自分の目的のために慎重に 扱うのでもない限り、素人がこれらの特徴から「あれは日本手話だ」「これは 日本語対応手話だ」と断定するのは、あまりに良いこととは思えません。

何のために手話を区別するのか?

では、一体、日本手話と日本語対応手話は何が違うのでしょうか? 実は、これ はすでに述べました。日本手話と日本語対応手話では文法と語彙が異なります。 例えば、日本手話では「弁当/作る/私」のように人称名詞が最後に登場するこ とがよくありますが、これは日本語対応手話ではあまり見られません。少なく とも、違いはあります。

では、日本手話と日本語対応手話は、違ってはいけないのでしょうか? そんな ことはありません。違ってもいいんです。大切なのは「違いを理解する」こと です。つまり、必要な時に困らないように違いをわかっておくことが大切です。 そしてもう一つ大事な点があります。それは「違いを喧嘩の道具に使わないこ と」です。たとえ誰かの手話が自分の手話と異なっていても、それで何が悪い のでしょうか? 普通は個性、性格、癖と言えば済んでしまうことでしょう。手 話の違いをもってきて、わざわざ強調して、論争のネタにする必要はどこにも ないのです。

さて、それでは、私の研究分野である、自然言語処理学は、この違いをどのよ うに活用するのでしょうか? もちろん、喧嘩のネタではありません。
自然言語処理学の中にある大きな分野の一つに「機械翻訳」があります。計算 機により言語変換をしようという研究です。この研究では言葉の処理を4段階 の入力、1段階の変換、2段階の出力に分割して考えます。

機械翻訳は入力と出力が異なる言語となりますから、入力が日本語の場合、出 力は手話ですし、手話を入力すれば日本語が出力されることになります。(そ れが最終目標で、今はそうなる機械翻訳システムを作っている最中であること をお断りしておきます。)
さて、手話が入力の場合、もし、日本手話と日本語対応手話の違いがわかって いなければ、2段階目の構文解析で間違った結果を生み出します。例えば、先 ほどの例の「弁当/作る/私」を日本手話で解析すれば、「弁当は私が作るのか?」 と正しく解釈できます。しかし、これを日本語対応手話で解析すれば「弁当を 作る私」となってしまい、肯定文となります。このような間違いをしないため には、日本手話と日本語対応手話をよく分類し、調査し、解析する時に使う資 料として日本手話の文法と日本語対応手話の文法を整備しておく必要がありま す。そのために、自然言語処理学では、日本手話と日本語対応手話を分類して 扱うのです。
もう一つ付け加えるなら、自然言語処理学では、表現の違いはほとんど気にし ません。それは、もし、表現違うだけならそれは7段階目の表層生成で使う資 料を差し替えてしまえばいいだけだからです。幸いにも、私の感触では、日本 手話と呼ばれている手話は、文法的なものが共通しているように思われます。 ですから、「遊ぶ」という手話が北海道と東京と京都では手の形が違うそうで すが、それは私にとってはどうでもいいことで、手の形や表情といった私にとっ てどうでもいいことを取り払うと、日本手話というある一つの言語体系が見え てくるのです。これは日本語対応手話とは全く異なるものです。ですから、言 語処理システムとして、日本手話と日本語対応手話の2つに対処できるように すればいいのです。

では、自然言語処理学以外の人は何で分類するのでしょうか?
私は、現在の日本手話の議論では、必要以上に分類して盛り上がっているよう に思います。そして無用な批判を生んでいるようにも思います。誰かの手話を 批判するために、日本手話と日本語対応手話を分類するのなら、それは止めて 欲しいし、そんなことはするべきではありません。我々は研究上必要だから、 そのために分類するのであって、手話に優劣をつけたり、批判するためにはやっ ていないのです。我々の分類をそのように利用している人がいたら、それはす ぐにやめて下さい。例え話をすれば、この状況は、料理するために包丁を作っ たら、それを勝手に人を殺すために使われてしまったのと同じです。そんなこ とはやめた方がいいのは当然ではありませんか。
私は自然言語処理学において、計算機で手話を扱うために、手話を分類してい ます。そして、それぞれの手話に適した扱いを研究しています。たぶん、別の 学問では、また違う目的があって分類しているでしょう。もしかすると、その 分類方法も内容も異なるかもしれません。それは、目的があるからであり、そ のために行っていることです。日本手話とは何かを論じる前に、何のためにの 視点が抜けてしまうのは避けたいものです。
手話の違いは様々です。個人の違い、地方による違い、構文や意味の違いなど 色々考えられます。どれが正しいわけではなく、どれかが間違っているわけで もありません。現に、誰かがその手話を使っている以上、その手話を手話とし て認めていく姿勢が必要です。そうすれば、いずれは落ち着くところに落ち着 くと思うのです。

参考文献


TOKUDA Masaaki (tokudama@rr.iij4u.or.jp)

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